世界で一番甘いキス

こんにちは。
とみーです。

唐突ですが、私の場合、
スーパーで買い物をする時など、
ついつい食品の裏面を気にしてしまいます。

というのも、ウチは嫁がアトピー持ちなので、
何か食品を買う時は必ず添加物が入っているかを見ます。

変なのが入っていると、すぐにアレルギーが出ちゃうんですよ(^^;

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私も一人暮らしの時はそんなに気を使ってなかったのですが、
最近はちょっとチェックするようにしています。

現在こそ、まぁちょっと気を付ける程度なのですが、
私が子供のころはヤバかったんですよ~。

というのも、母が健康おたくというか、
自然食にメッチャこだわりがありまして・・・。

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ご飯はすべて玄米!
お味噌汁のだしはカンナで削ったカツオダシ!
材料はほとんど自然食品のお店で購入!

さらには、スナック菓子も禁止です。

まぁ、リバウンドでハタチ過ぎてから、
メッチャスナック菓子好きになってしまったのですが(笑)


おかげで子供のころはご飯が好きではなく、
食がすごい細かったです。

だって、ご飯の味がうすくて。

ご飯も玄米のみならず、粟(アワ)とか稗(ヒエ)とか入ってます。

「どこの江戸時代のご飯だよッ」

っと、子供ながらに突っ込みたい気持ち満載でした。
おかげで背も伸びず、学校の背の順もいつも前から2~3番目でした。

今だったら、ありがたい話なんですけどねぇ。
当時はありがたみは全然感じられませんでした(^^;


週に1回、ばあちゃんちへいくと、

「やった!白飯が食える!」

と、心の中で喜んだものです(^^;

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父も感化されて、昭和にあらざるがごとき、
超ロハスな食生活をしていました。

スナック菓子のことは、愚脳素(グノーソ)と命名し、
友達のウチに遊びに行ったとき以外は、
ほとんど家で食べた覚えがありません。

愚脳素が一般的な言葉でないことを知ったのは、
私が中学になってからのことでしたw



そんな母ですが、性格はメッチャおだやか、、
というか、母の口から他人の悪口を聞いたことがありません。

というのも、母の母(私のおばあちゃん)がかなり、
なんというか、人間的に強い人で。

自分の思った通りに他人を動かす人でした。

ばあちゃんが「あーしなさい!」とい言ったらあーなるし、
「こーしなさい!」っていったらこーなる。みたいな。

当然、人それぞれ生まれながらの性格があります。

同じ親から育っても、母の弟(私のおじさん)なんかは若いころは、

「うっせー!しるかっ」

なんつって、家をおん出てバイクを乗り回したりしていたそうです。


で、私の母はというと、性格も従順。
言うとおりに「はい」「はい」ということを聞きました。

人間的にあまり強くなかったんですね。

「ちゃんと勉強しなさい!」
「はい」 → 学年トップの成績

「私立の大学に行かせるお金はありませんからね!」
「はい」 → 国立の大学に入学

そんなだから、父は結婚してから、
自分の意見をまったく言わない母に苦労したようです。


父「今度の休み、どこかに行こうか」
→ 母「あなたの行きたいところへ行きましょう」

父「これ、どうしようか」
→ 母「あなたの思った通りにしていいわよ」

父「何かしたいことはある?」
→ 母「・・・・・・・」



そんなだから、ケンカにもなりようがなかったのですが、
私が子供のころ、1回だけ両親のケンカを目撃したことがあります。

それは台所でのこと。

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その時、母は茶碗を洗っていたのですが、
どうやら実は疲れていたみたいです。

そこで父が、

「代わりに茶碗を洗うから休みなさい」

と言ったら母は

「いい、自分でやる。」

と、言って譲らないので父が

「僕がやるって、いいから休みなさい!」

といっても母がガンとして譲らないので、
押し問答になっていました(笑)

後にも先にも、両親のケンカを見たのは、
これくらいですね~。




これは兄の証言なんですけど、
兄が3歳か4歳くらいの時のお話。

父が仕事に出かけた後、母が2階でしくしくと
泣いていたそうです。

不思議に思った兄は母に聞きました。

兄「おかあさん、どうして泣いてるの?」
母「父さんがね、仕事にいっちゃんたの。」


そしてまたしくしく泣いています。

その時に兄は子供ながらに

「お、おう。どうしよう。これ。」

と思ったそうです(笑)



そんな感じで、メッチャ平和な家庭で育ったため、
私の子供時代は超平和でした。

そんな両親の元で育ったため、私の場合、
反抗期すらもありませんでした。

もともとの性格がおおらかなのもありますが、
反抗する相手もいなかったし、そんな状況もなかったので(^^;

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しかしそんな平和な家庭に、ある時、事件が起こります。


当時私は大学生でした。

その時、母は教員の資格をもっていたので、
産休の先生の代理などで入るサブ教師の仕事をしていました。

当時の彼女のマイブームは歩くこと。

健康オタクがたどりついた健康の秘訣、
早足でとにかくいっぱいあるくこと。

万歩計をいつも持ち歩いて、

「今日は○歩あるいたよ!」
「今日は○歩あるいたよ!」

と、いつもうれしそうに言っていました。
職場まで何千歩も歩いてしまいます。


ところがある日、母は足を抱えて家に帰ってきてました。

「どうしたの?」と聞くと、
「足が痛くてあるけないの」とのこと。

とりあえずその日は仕事をお休みして、
家で休むことにしました。

後日、漢方医のお医者さんのところに行き、
足を見せると

「大丈夫!治りますよ!」

と太鼓判をもらって帰ってきました。

それからいろいろと治療が始まりました。
針治療も開始しました。





1ヶ月。
2ヶ月経ちました。


でも、なんだか、なかなかよくなりません。

しかもその時に、さらに追い打ちで事件が起こります。



当時は、教師をしている父がバブルの絶頂期に
買ってしまったマイホームに住んでいました。

その近くに鉄塔が立っていたんですね。
あの、電気を送るためにぽつぽつ立ってるあれです。

ただ、問題はその鉄塔とウチとの距離がめちゃ近くて、
それそこ目と鼻の先だったんですよ。

どうやら、これが電磁波を出していて、
母の具合を悪くしているようだ、ということがわかりました。

健康な人なら問題なのですが、敏感な人や、
弱っていたりすると、びりびりしてしまうそうです。

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このままだと、良くなるものもよくならん!

ということで、我が家一家で引っ越しをしました。

母の面倒を見やすいように、
父は、職場のすぐ近くのところに家を借りました。


ところが、今度は引っ越した1ヶ月後に、
その場所でも電磁波を出す鉄塔が立ってしまいました。


あわてて今度は、父の実家の隣にあった、
今はもう貸してないばあちゃんが持っていたアパートに身を寄せました。

ただ、1Kでトイレも無いようなボロ屋だったので、いったんの仮家として住んで、
その間に、知り合いのつてで、新しいすみかを見つけてまた引っ越し。

この1年で3回引っ越しをしました。

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やっと、落ち着ける家を見つけたのは良いのですが、
母の具合は悪化の一途をたどっていきました。

リハビリをしても、ぜんぜん歩けるようにならないどころか、
ますます歩行が困難になっていました。

杖も買って、人につかまりながら杖を使って、
やっと移動できるくらいです。


それでも、父は治ると信じ、母の看病をしました。

仕事も、給料を半分にして時短勤務に切り替え、
毎日、母のためにご飯を作るようになりました。

あまり食べられないので、栄養があるものを一口だけ。

夕方6時ごろに、大学から家に帰ると、
父が手作りで作った母のごはんが、
小皿に一口分だけづつ、7つも8つも並べてありました。



絶対に治ると信じて。



しかし、懸命な看病とは裏腹に、
母の病状はどんどん悪くなります。

もはや、寝起きも自分でろくにできず、
やがて家には特注のベッドが仕入られました。


ノズルがついていて、手でぐるぐる回すと、
上半身だけ起こせるようになっていて、
ご飯の時には上半身だけ起こして食事をします。

ですが、次第にそれすらもままならなくなってきます。



やがて体を動かすだけで、腰に激痛が走るようになりました。

夜トイレのために、体を起こすだけで、

「うおう~~!おおーーーあーーー!」

と、母の叫び声が聞こえてきます。

それが、毎晩、毎晩、続きます。

その時、両親は1階で、兄と私は2階に部屋があったのですが、
2階のベランダに出たときに、兄が私に耳打ちしました。

「おい、かーちゃんのあれ、どう思う?もう、むりじゃね?」



その1週間後、初めて病院に連れて行きました。

診断の結果は・・・・。




ガンでした。





実は数年前に小さい乳がんの手術をしていたのですが、
それが全身に転移してしまっていたようです。


正直、やっぱりな。と私たち息子は思いましたが、
絶対治ると信じていただけに、父はショックだったようです。


母はそのまま、家には帰ってこず、
病院での入院生活が始まりました。

母は、ガンだったと宣告されても、
やはり何一つ文句を言いませんでした。


私も学校帰りなど、ちょくちょく見舞いに行きました。

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家での治療とは違い、痛み止めが使えるので、
ずいぶんと楽になったようでした。

「大学どう?」
「ちゃんと勉強してる?」

ありきたりの会話。
母が入院したこと以外は、普段と変わらない日常。

この時はまだ母が1年以内に、この世からいなくなるなんでことは、
想像することもできませんでした。

そのころ、私が乗っていた単車が壊れてしまったので、
あわてて雑誌のバイク王を買って、見舞いに行くための、
原付を即買いしたのを覚えています。


ある日、見舞いに行った時に、一度だけ母の愚痴(?)
というか、母の願いを聞きました。

「あなたのこれからが見届けられない」
「それだけが唯一の心残り」

私はちょっとびっくりしました。

というのも、それくらい、母は「自分の要望」というのを、
表に出すことをしなかったからなんです。

同時に、ちくっと心が痛みました。

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しばらく入院生活をしたのち、母の病状は徐々に、徐々に、
悪い方へと進行していきました。


やがて、余命数ヶ月となった時に、残りの時間を
落ち着いて暮らせるよう、ホスピスへの移動しました。

それからは、父もあまり家には戻らなくなり、
仕事場とホスピスを往復するようになりました。

そのころ、学校や、バイトから家に帰ると、
いつも家に一人でした。

心に隙間風が絶えず吹いているようでした。

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でも母がホスピスに移るとそれまでの生活から、
風景が少しかわりました。

それまでは、「これからどうなっちゃうんだろう」
っていう不安と恐れが入り混じったダークグレーという感じでした。

しかし、余命3ヶ月の宣告を受けて、
もうできることは限られています。



「母が生きている残りわずかな貴重な時間を一緒にすごすこと」



できることは、ただこの一点だけです。


父は、仕事の半ドンが終わったら、そのまま毎日母のいるホスピスにくるので、
完全に施設の人に顔を覚えられていました。

そのころの母は、まだ50過ぎにも関わらず、
80歳のおばあちゃんのようになっていました。

でも、後日父がいうには、父eyeでは、
母の顔を見た時、しわ一つ見えないキレイな顔に見えたそうです。


こうなると、我々息子たちは、もはや物語の外の人物です。
残された時間は、ほとんどは、父と母、2人きりで過ごしました。

私はついぞ、聞くことはできませんでしたが、
たまに、母の泣き言を聞くこともできたそうです。

息子の目からみても、そこには完全に1つとなっている夫婦がいました。

そのような状況の中、運命の時は刻々と近づいてきます。


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ある日、いつものように、私は大学の授業に行っていました。
当時、大学4年生で、もうすぐ卒業という時期でした。

私が言っていた学科は大学には珍しく、4年年でもクラスがあったので、
その日は卒業前にみんなでクラス写真を撮っていました。

「はい、チーズ!」

と、写真を撮り終わった時に、私の携帯電話に着信がありました。

父からでした。

「お母さんが危篤です。おそらく今夜です。すぐに来てください」




以前、見舞いに行くために急きょ買った原付を飛ばして、
母のいるホスピスに駆けつけました。

駆け付けたホスピスには、すでに家族全員がそろっていました。

一切音がしないホスピスの一室で、
残されたわずかな時間を家族で過ごしました。

時間はゆっくりと流れていました。

1秒、1秒が、主張するかのようにゆっくり流れます。

母はすでに意識もとぎれとぎれでした。

でも、30分静かだったかと思うと、
たまに意識を戻します。

大量のモルヒネの投与で、口もうまく回りません。
でも、はっきりと身振り手振りで主張します。

「ひーひゃだぅあ、しぅひゃいぇ」
「ひーひゃだぅあ、しぅひゃいぇ」

もう私には、何を言ってるのかわかりませんでした。

でも、ずーっと一緒にいた父だけが、
聞き取ることができました。

「そうだね、深夜だからね。静かにしないとね。」

もう、後数分後に自分は死ぬというのに、
母は周りの人のことを気遣っていました。

少ししゃべると、また意識がしばらくなくなります。


ついに最後の時が近づいてきます。

亡くなる10分ほど前に、
また、最後に母は目を覚ましました。

私の方をみて、微笑みながら手を広げてきます。
私は呼ばれるままに母を抱きしめました。

すると、母は私に対して短く何かを何回も言ってきます。

「はーひゅい」
「はーーひゅい」

7回、8回、同じことを繰り返し言います。

母が私に最後に何回も言った言葉は、




「大好き」




でした。



そうして、54歳の母は、90歳すぎのおばあちゃんのような、
しわしわのくちびるを、私のほほに何回も当てました。




そして、満足そうに微笑むと横になりました。




それからすぐ、母の呼吸はだんだん
途切れ途切れになっていきました。




やがてその呼吸もとまり、
母は天に召されました。



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人間である以上、だれもがやがて持っているのが死です。

普段は意識しないで過ごしてしまいがちですが、
大好きな友達も、兄弟も、親だって。自分だって。いつか死にます。

息子である私を大好きだといって、
亡くなっていった母。

そんな母を私は本当に誇りに思います。

誰かを嫌いになりそうだったり、
自分のこだわりで相手を傷つけそうなとき。

私は母を思い出します。

「私も母のように死ぬときは大好きだと言って死にたい」

そして、生きている間は、
せめて自分の手の届く範囲の人だけでも自分の力で守りたい。

そう思います。



母が死ぬ直前に、私にくれたぶかっこうで最も愛らしい、




この世界で一番甘いキス。




母が最後にくれたこの贈り物を超えるものは、
私の生涯において二度と手に入れることはできないでしょう。

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著者プロフィール

漫画とゲームが大好きな、なかなか大人になれない36歳。
父親と母親、ともに教師の家の次男として生まれ平和に育つ。

20代後半に社会の洗礼を受け、毎月残業80時間を超す(残業代は出ない)
ブラックなネット広告代理店にてネット関連のプロモーション業務に従事。

30歳の時、結婚と転職を機に、もっと人間らしい生活と、
嫁と家族の幸せを求めて独自でインターネットビジネスを始める。

現在は平和な職場環境の元、副業としてネットビジネスを展開し、
インターネットを活用して複数の収益源を確保することに成功。

自身のビジネスを拡大させながら、そこで得た秘訣や、
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理不尽なことがと嘘が嫌いで、建設的なことやお話が好きです。
おすすめの漫画は「ヴィンランド・サガ」と「ぽっかぽか」です。

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